荒れ果てた大地

どうにかします

読んだ:紅野謙介『検閲と文学』(河出書房新社)

 

読んだ。

1月上旬は、tokyomxで放映されている反ワクチン陰謀論ドラマ『GODドクターNEOX』*1の影響で、各種メディアにおける表現の自由に対して個人的な関心が高まっていた。その過程で手に取った本。

本書は、1920年代日本における雑誌/書籍/演劇への検閲を題材に、文学者、編集者、内務省といったアクターに着目することで、戦前日本における検閲の様相について生き生きと叙述している。

各章の内容を大まかに記すと、検閲の根拠規定である出版法が十分な議論を経ることなく成立したこと(第2章)、大正期を代表する雑誌『改造』の創設秘話と、その社会批判雑誌としての性格が「商業的」かつ場当たり的に成立したこと(第3章)、内務省と出版社双方の都合がもたらした「内閲」という非公式の慣行、そして隠蔽された朝鮮人虐殺(第4章)、文学者の演劇への雪崩れ込みと演劇における検閲(第5章)、政争の具として利用されるようになった検閲制度(第6章)、検閲に反対する文学者・編集者の連合とその商業主義との関わり(第7章)、反検閲運動の亀裂と大正デモクラシーへの仄かな夢(8・9章)...といったところになる。

本書の美点の一つは、出版社が本来的に営利企業であり、それゆえその検閲との向き合いには不可避的に企業利益の観点が含まれる、ということに注目を促しているところだろう。出版社が営利企業である以上、出版社にとっては、事前に内務省に確認をもらった上で出版を行った方が、「言論の独立を堅持する」というお題目に拘泥したために折角の出版物が頒布禁止になるよりも(経済的観点からは)マシだ、ということになる。それゆえに、我が国は出版物の事前検閲を行う「検閲主義」でなく出版物の事後納本に基づく「届出主義」を取っており本来的な検閲は行なっていない、という内務省の見解にもかかわらず、「内閲」という慣行が横行することとなる。そのほか、単に言論の自由という観点からだけでは見えてこないさまざまな側面が、経済的観点を挟むことで見えてくる。

また、本書の大半の部分が改造社の動向に伴走するように叙述されているのも魅力的だ。『改造』という雑誌は、その名前といくつかの掲載記事こそ有名だが、しかし『改造』それ自体にフォーカスした文章を今まで私は読んだことがなかった。大正期の文学・政治状況に重大な影響を及ぼした『改造』の内情に触れることができたのは、大きな収穫だった。

本筋からは外れてしまうが、この手の本を読んでいると、今となっては忘れ去られてしまった言論人とその言説に触れることができるのも楽しい。個人的に気になっているのは本荘可宗という人物で、本書の中での彼は、「文藝戦線」などで執筆し、プロレタリアにはドイツ観念論のような哲学的思弁も宗教的諦観も不要、と説く唯物論者として現れるのだけれど、少しNDLオンラインで検索してみたところ、確かにバクーニンの翻訳をやり、1930年の『プロレタリア宗教理論』なる書では宗教批判を展開しているようなのだが、その3年後には仏教関連の本を出し、しばらくするとエックハルトを語るようになり、戦時中には日本民族を称揚し、挙句戦後になると禅に絡めて人生指南をする書籍をワニブックスから出版するという有様で、その思想信条の変化も込みで興味を惹かれる。また、これは著名人だけれど、井上哲次郎が学内では三種の神器の虚構性を得々と語っていた、というのも驚きだった。井上に関しては、本書で紹介されていた『国民道徳論の道』あたりを読んでみたい。

 

最後に、個人的に収穫だったのは、関東大震災での朝鮮人虐殺への言及に対する大規模検閲の実情に触れることができたことだ。検閲がなされていたことは知っていたが、実際に検閲対象となった紙面を見ると、その重さがひしひしと伝わってくる。このことが私にとって重大だったのは、本書の範疇からは外れてしまうことだが、吉屋信子が短編「あゔえ・まりあ」*2朝鮮人虐殺を間接的に主題にしたこと(それも1924年の段階で!)がいかに勇気あることだったか、ということがようやっと本当の意味で理解できた気がしたからだ。

書いていて思ったのだが、ひょっとしたら、いわゆる商業流通から少し離れたパンフレット/個人雑誌の範囲では、本書で描かれたのとは少し違う情景が見られたのではないか、という気もする。この辺は、個人的に追求してみたい。

 

*1:大変低劣な出来である。地上波でここまで出来の悪い映像作品が流れているのを見るのは、一周回って大変新鮮な経験だった

*2:とある大衆食堂に置かれた、およそ大衆食堂には不似合いな蓄音機の来歴を通じて、震災の日から消息を絶った朝鮮人学生について語る掌編。吉屋の個人雑誌『黒薔薇』に収録。現在は不二出版から出ている復刻本で読むことができる