荒れ果てた大地

どうにかします

雄弁な人魚姫と繊細な王子:ワールドダイスター1話感想

友人に勧められて見た。友人に感想を伝えるために結構ちゃんと見てメモ書いたので、この際放流しておこうと思う。

world-dai-star.com

あらすじ:演劇が世界的人気を誇る世界。劇場で輝く「ダイスター」を目指す少女・ここなは、友人の静香に支えられながら練習を重ねていたが、ついに名門劇場・「Sirius」のオーディションのチケットを掴む。しかし、劇場への道すがらで出会ったドイツからのオーディション受験生・カトリナに、「センスがない」と一蹴され、内に抱いていた不安を増幅させてしまう。そしてオーディション本番、カトリナの名演に圧倒され自信を喪失していたここなだったが...

「天才的な演技」を言語化するアニメ

演劇を主題にしたアニメ、それも「スター」とタイトルに入っていれば、『レヴュースタァライト』を思い出さないほうが難しい。作中で「舞台で輝くスター」を強調するセリフが登場すればなおのことだ。

「ワールド大スターになれる人って、どんな人かわかる?」静香のセリフ

「人々は、一際輝くセンスを持つものを『大スター』と呼んだ」ナレーターの言

 

とはいえ、両作には明らかな違いがある。『スタァライト』は、徹底した内面-関係性描写(とそれを映像的に示した戦闘シーン)を極めて優れた形で遂行した一方で、具体的な演技論などには一切踏み込まなかった。それに対して、本作は演技論、演劇論(空間をどう利用するか、作品をどう解釈するか、相手の演技の戦略をどう理解するかetc..)にも焦点を当てており、その点は明確に異なる。
それは例えば、カトリナがオーディションで『人魚姫』を演じるシーンに表れている。
魔女役を演じるべくスタンバイしている試験官の柊を前にしたカトリナは、舞台をこう分析する:

「舞台装置は無し。美術もない。あるのは舞台中央を照らす小さなスポットライト。彼女は影の中に隠れて魔女の底知れなさを表現している。」

そうした柊の演技戦略に呑まれた(というよりもおそらくは分析すらできなかっただろう)他の受験生たちは、柊の気迫に怯えるか、はたまたその裏返しで蛮勇を発揮して脱落していった。彼女たちは柊に「食われ」、主役として振る舞えなかったのである。そして注意するべきは、舞台上で動いていたのは柊だけであり、受験生の誰もがほとんど棒立ちで、柊に押されて後ずさることなしに定位置から動くことはなかった、ということだろう。観客からしてみれば、そこで展開されていたのは、恐ろしく動きのない、空間を生かしきれていないつまらない舞台だったのである。

オーディションの場面。柊の気迫に押され、受験生はみじろぎもしない。スクリーンショットニコニコ動画より。dアニメストアだとスクショが取れなかったので...


対してカトリナがとった戦略は、スポットライトから程近く、柊からやや離れた位置に座り込んだ状態から演技を始めることだった。オーディションが始まる。柊はゆっくりとカトリナの周りを歩き出した——これまでのオーディションではほとんど動きもしなかったと言うのに。舞台は空間だ。不安に怯える(しかし内側には勇気を秘めた)人魚姫と、その内面に踏み込んで嘲るようにその覚悟を問う魔女、というシチュエーションに対する一つの解釈として、カトリナはへたり込んだ姿勢の(しかしスポットライトにほど近い場所にいる)人魚姫、という表象を選択し、それを受けた柊は、彼女の周りを周回し、時折身をかがめながら彼女に語りかける魔女として振る舞ってみせた。この瞬間、舞台は柊の独擅場ではなく、カトリナを中心とした空間に再編され、正しく『人魚姫』の舞台として成立したのであった...

カトリナのオーディション。不安げな表情で座り込む「人魚姫」と、彼女に近づく魔女


このシーンには、「舞台上の空間をどのように編成するか」という重要な思考が端的に表れている。そしてこのシーンに限らず、Siriusの役者・八重の初登場シーンでも、八重はごく自然にスポットライトを活用して自分の存在感をアピールしてみせている。
このように、たいていのアニメが「天才性」「オーラ」などのフレーズで誤魔化している「優れた役者はどのように考え、どのように振る舞うのか」を明晰に描写しようとする姿勢には大いに好感を持った。
また、本作では、「名演」の最中にはキャラクターの表情や身振りを極めて豊かにしてみせることで、視聴者に対して「名演」を説得的に見せようと試みており、この試みも大いに成功しているように思う。

繊細な王子と雄弁な人魚姫:聞き取るここなと伝えるカトリナ

演劇を題材とした作品ではしばしば見られることだが、本作でも劇中作とキャラクターとの暗喩的繋がりが見られる。とりわけ第一話においては、『人魚姫』の「王子」と「人魚姫」が(おそらく)それだ。

 

カトリナは人魚姫である。
カトリナは遠い異国(ドイツ)からやってきた。彼女の母語はここでは通じない。彼女のドイツ語での独り言は聞き取られない。あたかも人魚姫の声が奪われてしまったように。
彼女の不安は誰にも理解されない。彼女の両親が偉大な演劇人であることをSiriusの面々は羨むが、しかしそれが重荷になっていることには誰も気付かない。ドイツ語で記された両親からのメッセージは、カトリナ以外誰も読むことができないし、気づかれないまま、一人カトリナだけを蝕んでいく。あたかも人魚姫にかけられた呪いが彼女以外には知られることがなかったように。
彼女は芯に強さを持つ。異国の地で、格上の役者相手に真正面から挑んでみせる。人魚姫が魔女のもたらす不安に怯えながらも王子との日々を選択してみせたように。
そして何より彼女は、自分の世界を伝えようとする人間である。与えられた課題に対して、自ら渾身の解釈を叩きつける人間である。あたかも人魚姫が王子と必死にコミュニケーションを図ったように。
ここなは王子である。
彼女は舞台の声を聞き取れていなかった人だ。「ロミオとジュリエット」にせよ、「赤ずきん」にせよ、彼女の「演技」は作品の意図を無視したものであり、それはカトリナをひどく苛立たせた。あたかも人魚姫の声を聞き取れない王子のように。
にも関わらず、彼女は聞き取る人である。静香の声にせよ、幼児の声にせよ、カトリナの意見にせよ、これまで彼女を落としてきた選評にせよ、彼女を救った八重にせよ、ここなは他者の声に応答する形で行動してきた。それは一見して主体性の欠落のように見える。自分を強く持たないこと、伝えたいメッセージを持たないことを唾棄する、あるいは強くあらざるを得なかった人間(カトリナ、そして自裁で最期を迎えた人魚姫)にしてみれば、彼女/彼の流されやすさは、軽侮の対象にすらなりうる。「間抜け」な、無神経なカカシのようにすら映る。だがここな/王子は、逆の立場から見れば、カトリナや駅で出会った幼児に対してそうしたように、そしてここなが王子の演技を通じて示してみせたように、他者の悲しみ/声に誠実に向き合おうとする人である。*1

「僕に何を伝えたいの...? 何かつらいことがあるの...? 悲しい...? 大丈夫、僕がそばにいる。僕はいつだって、君の味方だから」- 王子を演じるここな

 

人魚姫の王子は、一般に嫌われ者だ。人魚姫の声をついぞ聞き取ることなく、苦しみを知ることなく、幸福の中に溺れていく。そんな王子の幸福を祈りながら、人魚姫は海の泡となって消える。しかし、『ワールドダイスター』で示される王子像は、それとは異なる。人魚姫の憂いを帯びた表情に気づき、彼女の悲しみに懸命に向き合おうとする。人魚姫と王子、それぞれに苦悩があり、その苦しみを比較することはできない。カトリナ/人魚姫は自らの苦悩に手一杯だ。カトリナは手元の小さな端末をナビにして道をゆき、端末に届くメッセージに怯える。対してここな/王子は、目的地を目指す時でさえ周囲の魅力的な景色に気を取られ、かたわらの友人と会話し、見知らぬ人に声をかける。そしてここなが、端末に届く不採用通知から意識を振り払えたのは、静香の「声」があったからだった。ここな/王子は世界の苦しみに、声に鋭敏である。自らの不安に拘泥する人魚姫と、幸福の最中でも人魚姫の苦しみに向き合おうとする王子。このように言い換えれば、苦しみの「大きさ」は逆転するようにも見える。
繰り返すが、二人の苦悩の大小は比較不能である。二人の悩みは異質のものである。しかしそんな二人でも、手を携えることはできるはずなのだ。ここなが演技を通じてそうしてみせたように。雄弁に自らを語ろうとする人魚姫/カトリナと、彼女の声を聞き取ろうと試みる繊細な王子/ここなが、舞台の上で向き合う瞬間が、おそらく本作の一つの山場になるのだろう。

朝日と星が共存できる僅かな瞬間

本作の一つのフックになっているあるしかけ(1話を最後まで見ればわかる)に関するモチーフについても少し記しておきたい。無人駅(陸奥横浜駅)のロータリーで演技の練習をする場面だ。

静香の熱演に魅了されるここな

幕が開けるように夜明けの光が闇を散らしていく

夜明けの朝日、静香に後光が差す

美しい場面だが、個人的にグッときたのは、この場面が、夜空の星と朝日とが共存できるごく僅かな瞬間を切り取っていることだ。お互いに相容れない存在が、ほんの短い間だけ寄り添っていることができる。

そういえば、第一話の冒頭では風車と電車が映されたのだった。他の場所から吹いてくる風から電気を生み出し、しかし自らはそこから離れることのできない風車。そして、風車の生み出した電気によって動き、他の場所へと去っていく電車。読み込みすぎかもしれないが、そのあたりについて考えるとちょっと感傷的な気分になってしまう。

 

終わりに

本作に対する不満点はないではないが(柳場ぱんだが「いちいちスタイルの良い/悪いを気にするタイプの腹黒キャラ造形」なのがかなり嫌、とか)、そこはおいおい解消されることを祈る。最後に、静香さんの諸動作がめちゃくちゃ可愛いという旨を共有して終わる。
Siriusへの道すがら、道中の常香炉に気を取られるここな。それまで道をずんずん進んでいた静香は、ここなが常香炉から離れるのをやや苛立った表情で待っている。

足トントンしながらここなを待っている静香

足トントンしながらここなを待っている静香

ここ、せっかちさんという感じで可愛いね...

*1:月並みかもしれないが、カトリナ/人魚姫 - ここな/王子の図式は、ケア倫理の議論に接続する余地がある。聞き取ること、ケアすることに近代的倫理を超える固有の倫理的価値を見出すケア倫理に関しては、近年研究書や入門書が多数出ているが、ひとまず原点である『もうひとつの声で』の新版が昨年出たので貼っておく。

 

私が初めてケア倫理の議論に触れたのは岡野八代『フェミニズム政治学』で、この本も議論はあろうが学ぶところが多い。