荒れ果てた大地

どうにかします

雄弁な人魚姫と繊細な王子:ワールドダイスター1話感想

友人に勧められて見た。友人に感想を伝えるために結構ちゃんと見てメモ書いたので、この際放流しておこうと思う。

world-dai-star.com

あらすじ:演劇が世界的人気を誇る世界。劇場で輝く「ダイスター」を目指す少女・ここなは、友人の静香に支えられながら練習を重ねていたが、ついに名門劇場・「Sirius」のオーディションのチケットを掴む。しかし、劇場への道すがらで出会ったドイツからのオーディション受験生・カトリナに、「センスがない」と一蹴され、内に抱いていた不安を増幅させてしまう。そしてオーディション本番、カトリナの名演に圧倒され自信を喪失していたここなだったが...

「天才的な演技」を言語化するアニメ

演劇を主題にしたアニメ、それも「スター」とタイトルに入っていれば、『レヴュースタァライト』を思い出さないほうが難しい。作中で「舞台で輝くスター」を強調するセリフが登場すればなおのことだ。

「ワールド大スターになれる人って、どんな人かわかる?」静香のセリフ

「人々は、一際輝くセンスを持つものを『大スター』と呼んだ」ナレーターの言

 

とはいえ、両作には明らかな違いがある。『スタァライト』は、徹底した内面-関係性描写(とそれを映像的に示した戦闘シーン)を極めて優れた形で遂行した一方で、具体的な演技論などには一切踏み込まなかった。それに対して、本作は演技論、演劇論(空間をどう利用するか、作品をどう解釈するか、相手の演技の戦略をどう理解するかetc..)にも焦点を当てており、その点は明確に異なる。
それは例えば、カトリナがオーディションで『人魚姫』を演じるシーンに表れている。
魔女役を演じるべくスタンバイしている試験官の柊を前にしたカトリナは、舞台をこう分析する:

「舞台装置は無し。美術もない。あるのは舞台中央を照らす小さなスポットライト。彼女は影の中に隠れて魔女の底知れなさを表現している。」

そうした柊の演技戦略に呑まれた(というよりもおそらくは分析すらできなかっただろう)他の受験生たちは、柊の気迫に怯えるか、はたまたその裏返しで蛮勇を発揮して脱落していった。彼女たちは柊に「食われ」、主役として振る舞えなかったのである。そして注意するべきは、舞台上で動いていたのは柊だけであり、受験生の誰もがほとんど棒立ちで、柊に押されて後ずさることなしに定位置から動くことはなかった、ということだろう。観客からしてみれば、そこで展開されていたのは、恐ろしく動きのない、空間を生かしきれていないつまらない舞台だったのである。

オーディションの場面。柊の気迫に押され、受験生はみじろぎもしない。スクリーンショットニコニコ動画より。dアニメストアだとスクショが取れなかったので...


対してカトリナがとった戦略は、スポットライトから程近く、柊からやや離れた位置に座り込んだ状態から演技を始めることだった。オーディションが始まる。柊はゆっくりとカトリナの周りを歩き出した——これまでのオーディションではほとんど動きもしなかったと言うのに。舞台は空間だ。不安に怯える(しかし内側には勇気を秘めた)人魚姫と、その内面に踏み込んで嘲るようにその覚悟を問う魔女、というシチュエーションに対する一つの解釈として、カトリナはへたり込んだ姿勢の(しかしスポットライトにほど近い場所にいる)人魚姫、という表象を選択し、それを受けた柊は、彼女の周りを周回し、時折身をかがめながら彼女に語りかける魔女として振る舞ってみせた。この瞬間、舞台は柊の独擅場ではなく、カトリナを中心とした空間に再編され、正しく『人魚姫』の舞台として成立したのであった...

カトリナのオーディション。不安げな表情で座り込む「人魚姫」と、彼女に近づく魔女


このシーンには、「舞台上の空間をどのように編成するか」という重要な思考が端的に表れている。そしてこのシーンに限らず、Siriusの役者・八重の初登場シーンでも、八重はごく自然にスポットライトを活用して自分の存在感をアピールしてみせている。
このように、たいていのアニメが「天才性」「オーラ」などのフレーズで誤魔化している「優れた役者はどのように考え、どのように振る舞うのか」を明晰に描写しようとする姿勢には大いに好感を持った。
また、本作では、「名演」の最中にはキャラクターの表情や身振りを極めて豊かにしてみせることで、視聴者に対して「名演」を説得的に見せようと試みており、この試みも大いに成功しているように思う。

繊細な王子と雄弁な人魚姫:聞き取るここなと伝えるカトリナ

演劇を題材とした作品ではしばしば見られることだが、本作でも劇中作とキャラクターとの暗喩的繋がりが見られる。とりわけ第一話においては、『人魚姫』の「王子」と「人魚姫」が(おそらく)それだ。

 

カトリナは人魚姫である。
カトリナは遠い異国(ドイツ)からやってきた。彼女の母語はここでは通じない。彼女のドイツ語での独り言は聞き取られない。あたかも人魚姫の声が奪われてしまったように。
彼女の不安は誰にも理解されない。彼女の両親が偉大な演劇人であることをSiriusの面々は羨むが、しかしそれが重荷になっていることには誰も気付かない。ドイツ語で記された両親からのメッセージは、カトリナ以外誰も読むことができないし、気づかれないまま、一人カトリナだけを蝕んでいく。あたかも人魚姫にかけられた呪いが彼女以外には知られることがなかったように。
彼女は芯に強さを持つ。異国の地で、格上の役者相手に真正面から挑んでみせる。人魚姫が魔女のもたらす不安に怯えながらも王子との日々を選択してみせたように。
そして何より彼女は、自分の世界を伝えようとする人間である。与えられた課題に対して、自ら渾身の解釈を叩きつける人間である。あたかも人魚姫が王子と必死にコミュニケーションを図ったように。
ここなは王子である。
彼女は舞台の声を聞き取れていなかった人だ。「ロミオとジュリエット」にせよ、「赤ずきん」にせよ、彼女の「演技」は作品の意図を無視したものであり、それはカトリナをひどく苛立たせた。あたかも人魚姫の声を聞き取れない王子のように。
にも関わらず、彼女は聞き取る人である。静香の声にせよ、幼児の声にせよ、カトリナの意見にせよ、これまで彼女を落としてきた選評にせよ、彼女を救った八重にせよ、ここなは他者の声に応答する形で行動してきた。それは一見して主体性の欠落のように見える。自分を強く持たないこと、伝えたいメッセージを持たないことを唾棄する、あるいは強くあらざるを得なかった人間(カトリナ、そして自裁で最期を迎えた人魚姫)にしてみれば、彼女/彼の流されやすさは、軽侮の対象にすらなりうる。「間抜け」な、無神経なカカシのようにすら映る。だがここな/王子は、逆の立場から見れば、カトリナや駅で出会った幼児に対してそうしたように、そしてここなが王子の演技を通じて示してみせたように、他者の悲しみ/声に誠実に向き合おうとする人である。*1

「僕に何を伝えたいの...? 何かつらいことがあるの...? 悲しい...? 大丈夫、僕がそばにいる。僕はいつだって、君の味方だから」- 王子を演じるここな

 

人魚姫の王子は、一般に嫌われ者だ。人魚姫の声をついぞ聞き取ることなく、苦しみを知ることなく、幸福の中に溺れていく。そんな王子の幸福を祈りながら、人魚姫は海の泡となって消える。しかし、『ワールドダイスター』で示される王子像は、それとは異なる。人魚姫の憂いを帯びた表情に気づき、彼女の悲しみに懸命に向き合おうとする。人魚姫と王子、それぞれに苦悩があり、その苦しみを比較することはできない。カトリナ/人魚姫は自らの苦悩に手一杯だ。カトリナは手元の小さな端末をナビにして道をゆき、端末に届くメッセージに怯える。対してここな/王子は、目的地を目指す時でさえ周囲の魅力的な景色に気を取られ、かたわらの友人と会話し、見知らぬ人に声をかける。そしてここなが、端末に届く不採用通知から意識を振り払えたのは、静香の「声」があったからだった。ここな/王子は世界の苦しみに、声に鋭敏である。自らの不安に拘泥する人魚姫と、幸福の最中でも人魚姫の苦しみに向き合おうとする王子。このように言い換えれば、苦しみの「大きさ」は逆転するようにも見える。
繰り返すが、二人の苦悩の大小は比較不能である。二人の悩みは異質のものである。しかしそんな二人でも、手を携えることはできるはずなのだ。ここなが演技を通じてそうしてみせたように。雄弁に自らを語ろうとする人魚姫/カトリナと、彼女の声を聞き取ろうと試みる繊細な王子/ここなが、舞台の上で向き合う瞬間が、おそらく本作の一つの山場になるのだろう。

朝日と星が共存できる僅かな瞬間

本作の一つのフックになっているあるしかけ(1話を最後まで見ればわかる)に関するモチーフについても少し記しておきたい。無人駅(陸奥横浜駅)のロータリーで演技の練習をする場面だ。

静香の熱演に魅了されるここな

幕が開けるように夜明けの光が闇を散らしていく

夜明けの朝日、静香に後光が差す

美しい場面だが、個人的にグッときたのは、この場面が、夜空の星と朝日とが共存できるごく僅かな瞬間を切り取っていることだ。お互いに相容れない存在が、ほんの短い間だけ寄り添っていることができる。

そういえば、第一話の冒頭では風車と電車が映されたのだった。他の場所から吹いてくる風から電気を生み出し、しかし自らはそこから離れることのできない風車。そして、風車の生み出した電気によって動き、他の場所へと去っていく電車。読み込みすぎかもしれないが、そのあたりについて考えるとちょっと感傷的な気分になってしまう。

 

終わりに

本作に対する不満点はないではないが(柳場ぱんだが「いちいちスタイルの良い/悪いを気にするタイプの腹黒キャラ造形」なのがかなり嫌、とか)、そこはおいおい解消されることを祈る。最後に、静香さんの諸動作がめちゃくちゃ可愛いという旨を共有して終わる。
Siriusへの道すがら、道中の常香炉に気を取られるここな。それまで道をずんずん進んでいた静香は、ここなが常香炉から離れるのをやや苛立った表情で待っている。

足トントンしながらここなを待っている静香

足トントンしながらここなを待っている静香

ここ、せっかちさんという感じで可愛いね...

*1:月並みかもしれないが、カトリナ/人魚姫 - ここな/王子の図式は、ケア倫理の議論に接続する余地がある。聞き取ること、ケアすることに近代的倫理を超える固有の倫理的価値を見出すケア倫理に関しては、近年研究書や入門書が多数出ているが、ひとまず原点である『もうひとつの声で』の新版が昨年出たので貼っておく。

 

私が初めてケア倫理の議論に触れたのは岡野八代『フェミニズム政治学』で、この本も議論はあろうが学ぶところが多い。

 

 

(検証)ソクラテスは『本をよく読むことで自分を成長させていきなさい』と本当に言ったのか:知の産婆術のために(追記あり)

Twitterのおすすめ欄ほど「玉石混交」という言葉がふさわしいものはそうそうない。トピック「哲学」「HIPHOP」あたりは特にそうで、例えば後者では、有名どころのUSのラッパーをアイコンにしたしょうもない高校生どもがジャニオタを馬鹿にして内輪でプチバズしている様子、有名どころのMVを貼り付けて「これこそ HIPHOP」などいきがっている様子、カニエを擁護したいあまりユダヤ陰謀論を主張する様子などが立て続けに流れてくるのではらわたが煮えくり返っているところに、OMSBやillicit tsuboiが良かった楽曲をシェアしてくれるツイートが流れてきてすっかり嬉しくなったりする。前者に関しては、新刊書情報やシンポの情報などが流れてきて有益でもある一方で、しょうもない自己啓発イッタラーの名言ツイートや何某の「経営哲学」、アルファツイッタラーの「俺の哲学思想は〜」などという自分語りなども流れてくるという有様である。
で、今日、そんなおすすめ欄にこんなツイートが流れてきた。


十中八九ガセネタであり、半笑いで眺めていたのだが、気まぐれにgoogle検索をかけてもなんと訂正情報が出てこない。それどころかこの「名言」は相当にネットで流布されていて、中学生向けの訓示を含めたさまざまなところでソクラテスの言葉として引用されている始末である。こうした状況では、「いや、プラトンの著作全部に目を通したわけじゃないから...」とフェイクの流布を見過ごしているより、「この辺りの根拠に基づけばそんなものはない(蓋然性が高い)」と主張する人間がいた方がよい。なけなしの公共精神を振り絞って記事を書く次第である。なお、私はプラトンの専門家でもなんでもないので、誤りがあったらお知らせ願いたい。随時訂正する。

 

 

プラトンの著作全体を概説した優れたプラトン入門書の一つとして、ミヒャエル・エルラー『プラトン』がある。なお、著者のエルラーは2001~2004年にかけて国際プラトン学会の代表を務めたこともある古典学者である。
なぜソクラテスの話をしているのにプラトンが出てくるのだ、というところに引っ掛かりを覚えた人もいるかもしれないので、簡単に説明しておこう。
西洋哲学の原初とみなされることも多いソクラテスであるが、彼自身の残したテクストは現存していない。今知られている「ソクラテスの思想」は、彼の弟子であるプラトンが、自身の著した対話篇の中で、自身の師匠であるソクラテスに仮託して自身の思想を語らせたものである(もちろんソクラテスその人の思想も多分に反映されているだろうけれど)。そのほか、喜劇作家アリストファネスソクラテスを風刺したテキスト、プラトン同様ソクラテスの弟子であったクセノフォンによるソクラテスの回想などが遺されているが、プラトンの著作に対してその量は及ばない。以上のような経緯から、アカデミックな文章では「ソクラテスいわく〜」というような表記を見ることは稀で、「プラトンの著作におけるソクラテスは〜」などと枕をつけるか、はたまた単に「プラトンは」とすることが多い。このようなわけだから、「ソクラテスの名言」という表記が出てきた段階で、多少なりとも西洋思想を触った人間は眉に唾をつけて読むことになる。


で、早々に書いてしまうと、「本をよく読むことで自分を成長させていきなさい〜」などと(プラトンの)ソクラテスが語ったとは考え難い。この辺りの機微に関して、エルラー著の記述がよくまとまっているので引用しよう。

書物は知の伝達には役に立たない、というのがソクラテスの立場の主旨であり、この考えは『プロタゴラス』篇(329aを参照)で早くも提示されている...*1

 

冒頭の「名言」とはおよそかけ離れた主張である。おそらく多くの現代人を驚かせるだろうこの主張について、もう少し詳しくみてみよう。

文字による表現は明晰で確実な意味内容を何一つもたらしてはくれないのであって、口頭で会話し、然るべき相手とその場で向かい合って、またその相手が自分の主張を弁護するだけの能力を持つ場合にのみ、意思疎通しやすい状況が生まれ、本当の知識伝達が行われることが可能となる。書物に対するプラトンの懐疑の根拠は、書物だと、ふさわしくない読者の手にわたった時にその誤解から身を守ることができないという点にある(275e)。書物と会話しようと思っても、書物は黙りこくったままである(275d)。絵画と同様、書物に語りかけても何も答えてくれないし、いつも同じことしか言わない。著作は、読者の多様性に応じることも読者を選ぶこともできないし、読者から侮辱を被っても自力ではどうすることもできない(275d-e)。

……補完的な教授を欠くならば、書かれたものは物忘れと見せかけの知に導くだけである(275a)。*2

 

つまりこういうことだ。そもそもプラトンにおいて知恵とは、コップに水を注ぐようにたやすく「伝授」できる類のものではない(そのような知識観は、プラトンが忌み嫌ったものである)。プラトンの描くソクラテスは、対話を通じて、相手の中に洞察が生まれてくる手助けをする存在であり、その意味で、情報を受け渡す教師というよりも相手が既に孕んでいる子供の誕生を手助けする産婆に近い(いわゆる「知の産婆術」)。そして、出産を通じて母親が変容を遂げるように、対話相手もまた、その世界観を根本的に変容させられるのである。この差は決定的に重要である。プラトン=ソクラテスが目指すのは、プラトンの仮想敵、いわゆる「ソフィスト」(の多く)がしていたような何やら全能感に満ちた知の扱い方ではなく、自らの無知と向き合いながら真理を追い求めることであり、またそのような姿勢を獲得することであった。
そのようなプラトン=ソクラテスの知識観において、反論を返してこない書物は知の伝達媒体として心もとない。書物は反論を返してこないではないか。こちらが「わかった」と独断すればそこで探求は終わってしまう。それゆえにプラトンは対話を重視し、書物を軽視するのである(ではなぜプラトンは対話篇を著したのだ、という話になるが、そこはエルラー著に目を通してほしい)。そういうわけだから、「本をよく読むことで自分を成長させていきなさい。本は著者がとても苦労して身に付けたことを、たやすく手に入れさせてくれるのだ。」などという物言いが、およそプラトン=ソクラテスにそぐわないものであることがわかるだろう。知識は受け渡されるものではないし、そもそも「たやすく」手に入るものではないのだから。ついでに記しておくと、プラトンは「ラクに人生を謳歌」などとは口が裂けても言わないだろうし、自己啓発書の内容を「図解」して定型文と共にツイートするような営みを強く嫌悪するのではないか、とも思われる。

ところで、先ほどの引用のところどころに出てくる「(275a)」とかいうのは何かというと、1578年に刊行されたプラトン全集(刊行者の名前をとって通称「ステパノス版」。「ステパヌス版」などの表記揺れあり)における当該箇所のページ番号と行番号である。プラトンを引用する際には、このようにステパノス版のどこにその記述があるかを明示するのがスタンダードとなっており、プラトンの邦訳には大抵このステパノス版の番号が併記されている。試しに、『パイドロス』275aからbにかけての文章を藤沢訳『パイドロス』(岩波文庫)から引用してみよう。

……あなたがこれを学ぶ人たちに与える知恵というのは、知恵の外見であって、真実の知恵ではない。すなわち、彼らはあなたのおかげで、親しく教えを受けなくても物知りになるため、多くの場合ほんとうは何も知らないでいながら、見かけだけは非常な博識家であると思われるようになるだろうし、また知者となる代りに知者であるといううぬぼれだけが発達するため、つき合いにくい人間となるだろう。*3

このように、引用箇所を明示しておけば、いつの時代のどこの国からでも素早く引用元を確認することができる。引用元の明示というのはつくづく優れた仕組みである。

 

ところで、この謎の「名言」はどこから生まれてきたものなのだろう。

私もまだ確認が取れていないのだが、googleブックスで確認した限りでは、2012年の「座右の銘研究会」による書籍『座右の銘1500―人生を豊かにする言葉のサプリ』のものが一番古いように思う(全件確認できているわけではなく、要検証)。そんなわけだから、今後この「名言」をお使いになりたい方は、『座右の銘1500』より引用した旨を明記していただくのがよろしいのではないか。【2023.03.21 22:06追記:(入れ違いになってしまったが、id:nqzmfdさんからも同内容のご指摘をいただいた。ありがとうございます)再度調べてみたところ、想定より根深い広まり方をしていたことが判明した。

この「名言」は、1878年にアメリカで出版された書籍『Society To Promote Useful Reading』で既に「ソクラテスの言葉」として扱われていることが確認できる

当該記述

Employ your time in improving yourself by other men's documents; so shall you come easily by what others have labored hard for. Prefer knowledge to wealth, for the one is transitory, the other perpetual. - Socrates.

先ほどまでみてきた「名言」に加えて、「富より知識を優先せよ、富は一過性のものだが知識は永遠であるから」という文までついてくる。おそらくこの文を和訳したものが我々が見てきた「名言」なのだろう。そのためか、件の「名言」には、「書物を読むということは、他人が辛苦して成し遂げたことを、容易に自分に取り入れて、自己を改善する最良の方法である」という別バージョンも存在する。

では、1878年刊のこの本は一体なんなのだろう、と思い少し読んでみたのだが、どうも、学校教育を終えた後の女性にも学習の機会があって然るべきだ、と主張する女性団体による勉強会のマニュアルであるようだ。このほかにも、1884年刊の学校用教材など、ソクラテスの「名言」を引用する本は多数存在する。しかしそのいずれも、あくまで「名言集」といった形でしかこの言葉を扱っておらず、具体的にどんな文脈で用いられた文なのか、ということを明示したものは確認の限りではなかった。したがって、本稿の結論はさして揺らがない。また、「名言」が取り上げられているテキストの性格から、この遅くとも19世紀後半には流通していた「名言」は、教育現場で作り上げられた代物なのではないか、と推察される。追記終】

 

最後に、プラトンの入門書について。

本稿で援用したエルラー『プラトン』は、プラトンの略歴から、プラトンの学説の総体、主要著作の概略まで含む優れた入門書であり、プラトン入門におすすめである。

 

 

また、日本には納富信留という国際的に著名なプラトン研究者がいる(国際プラトン学会の会長歴もある)。納富先生のご本から入門するのもよいだろう。

 

しばしば、プラトンの対話篇は哲学入門に最適とされる。ぜひプラトンの対話篇を手にとって、実際に読んでいただきたい。

*1:エルラー(2015)、p.135

*2:エルラー(2015)、p.136

*3:プラトン(1967)、p.135

読んだ:紅野謙介『検閲と文学』(河出書房新社)

 

読んだ。

1月上旬は、tokyomxで放映されている反ワクチン陰謀論ドラマ『GODドクターNEOX』*1の影響で、各種メディアにおける表現の自由に対して個人的な関心が高まっていた。その過程で手に取った本。

本書は、1920年代日本における雑誌/書籍/演劇への検閲を題材に、文学者、編集者、内務省といったアクターに着目することで、戦前日本における検閲の様相について生き生きと叙述している。

各章の内容を大まかに記すと、検閲の根拠規定である出版法が十分な議論を経ることなく成立したこと(第2章)、大正期を代表する雑誌『改造』の創設秘話と、その社会批判雑誌としての性格が「商業的」かつ場当たり的に成立したこと(第3章)、内務省と出版社双方の都合がもたらした「内閲」という非公式の慣行、そして隠蔽された朝鮮人虐殺(第4章)、文学者の演劇への雪崩れ込みと演劇における検閲(第5章)、政争の具として利用されるようになった検閲制度(第6章)、検閲に反対する文学者・編集者の連合とその商業主義との関わり(第7章)、反検閲運動の亀裂と大正デモクラシーへの仄かな夢(8・9章)...といったところになる。

本書の美点の一つは、出版社が本来的に営利企業であり、それゆえその検閲との向き合いには不可避的に企業利益の観点が含まれる、ということに注目を促しているところだろう。出版社が営利企業である以上、出版社にとっては、事前に内務省に確認をもらった上で出版を行った方が、「言論の独立を堅持する」というお題目に拘泥したために折角の出版物が頒布禁止になるよりも(経済的観点からは)マシだ、ということになる。それゆえに、我が国は出版物の事前検閲を行う「検閲主義」でなく出版物の事後納本に基づく「届出主義」を取っており本来的な検閲は行なっていない、という内務省の見解にもかかわらず、「内閲」という慣行が横行することとなる。そのほか、単に言論の自由という観点からだけでは見えてこないさまざまな側面が、経済的観点を挟むことで見えてくる。

また、本書の大半の部分が改造社の動向に伴走するように叙述されているのも魅力的だ。『改造』という雑誌は、その名前といくつかの掲載記事こそ有名だが、しかし『改造』それ自体にフォーカスした文章を今まで私は読んだことがなかった。大正期の文学・政治状況に重大な影響を及ぼした『改造』の内情に触れることができたのは、大きな収穫だった。

本筋からは外れてしまうが、この手の本を読んでいると、今となっては忘れ去られてしまった言論人とその言説に触れることができるのも楽しい。個人的に気になっているのは本荘可宗という人物で、本書の中での彼は、「文藝戦線」などで執筆し、プロレタリアにはドイツ観念論のような哲学的思弁も宗教的諦観も不要、と説く唯物論者として現れるのだけれど、少しNDLオンラインで検索してみたところ、確かにバクーニンの翻訳をやり、1930年の『プロレタリア宗教理論』なる書では宗教批判を展開しているようなのだが、その3年後には仏教関連の本を出し、しばらくするとエックハルトを語るようになり、戦時中には日本民族を称揚し、挙句戦後になると禅に絡めて人生指南をする書籍をワニブックスから出版するという有様で、その思想信条の変化も込みで興味を惹かれる。また、これは著名人だけれど、井上哲次郎が学内では三種の神器の虚構性を得々と語っていた、というのも驚きだった。井上に関しては、本書で紹介されていた『国民道徳論の道』あたりを読んでみたい。

 

最後に、個人的に収穫だったのは、関東大震災での朝鮮人虐殺への言及に対する大規模検閲の実情に触れることができたことだ。検閲がなされていたことは知っていたが、実際に検閲対象となった紙面を見ると、その重さがひしひしと伝わってくる。このことが私にとって重大だったのは、本書の範疇からは外れてしまうことだが、吉屋信子が短編「あゔえ・まりあ」*2朝鮮人虐殺を間接的に主題にしたこと(それも1924年の段階で!)がいかに勇気あることだったか、ということがようやっと本当の意味で理解できた気がしたからだ。

書いていて思ったのだが、ひょっとしたら、いわゆる商業流通から少し離れたパンフレット/個人雑誌の範囲では、本書で描かれたのとは少し違う情景が見られたのではないか、という気もする。この辺は、個人的に追求してみたい。

 

*1:大変低劣な出来である。地上波でここまで出来の悪い映像作品が流れているのを見るのは、一周回って大変新鮮な経験だった

*2:とある大衆食堂に置かれた、およそ大衆食堂には不似合いな蓄音機の来歴を通じて、震災の日から消息を絶った朝鮮人学生について語る掌編。吉屋の個人雑誌『黒薔薇』に収録。現在は不二出版から出ている復刻本で読むことができる

貧乏人はなぜモバイルsuicaに現金でチャージするのか

クレカが止まってる(止まりかけてる)からです。

こういう増田がプチバズしており、ひょっとしてモバイルsuicaに現金チャージするタイプの人間のことを世間様はよく知らないのでは…と思い、ちょっと走り書きしてみることにした。なおサンプル数1なので参考程度に。あと、記憶が曖昧なので間違いもだいぶあると思う。

なぜ貧乏人はモバイルsuicaに移行するのか

上の増田は「カード型使え」と言っているけれど、私だって去年まではカード型のsuicaを使っていた。カード型suicaは、最初にデポジットの500円がかかることを除けば、運賃もお安くなるので非常にお得なアイテムだ。そうは言っても、私は生来の気質から物をしょっちゅう無くすので、ご多分に漏れずsuicaを頻繁に紛失していた。後で部屋を掃除している時にひょこっと出てくるけれど、大した額は入ってない(50円とか。そもそも貧乏人は万札チャージとかできない)し、かといって駅に行ってデポジット返却してもらうのもダルいしなんか駅員さんの手間増やしてるみたいで悪い気がするので、そのままその辺に放置していた。そんなこんなで、気づけばsuicaが何枚か部屋の中に散らばっている、という状況が発生していた。
そんな私がモバイルsuicaに移行したのは、本当に金がなくなった、クレカの残枠もない、しかし単発の派遣に行くには電車に乗らなくてはならない…というシチュエーションに直面した時だ。クレカの残高があればモバイルsuicaを新規作成して電車に乗れるのに…とスマホをいじっていると、ある記事を目にした。
そこに書かれていたのは、「カード型suicaの残額+デポジットの500円をモバイルsuicaに移すことができる」というものだった。
なんてことだろう。私は本当に運がいい…私は喜び勇んで部屋を漁り、カード型suicaを1枚見つけ、モバイルsuicaにチャージしたのだった。
さっきまで手元には10円玉が2枚しかなかった。しかし今や、手元のiPhoneには500円強入金されている。これは素晴らしい事実だった。
これで派遣に行ける。それだけですごく嬉しかったけれど、しかし私は、興奮冷めやらぬままにふとあることを思った。
「これって複数枚分残高移行できないのか?」
私は部屋を小一時間ほど漁り、suicaを4、5枚見つけ出した。そしてその全ての残高とデポジットを移行した結果、モバイルsuicaには3000円を超える額(正確には五百数十円分×n枚)が入金されていた。
かくして私は、モバイルsuicaでひと財産築いたというわけだった。派遣の帰り道、モバイルsuicaの残高を使って日高屋でラーメンを食べた。あの時のことはもうしばらく忘れないと思う。

とっても便利なモバイルsuica

かくしてモバイルsuicaに移行したわけだが、なるほどこれはなかなかに便利だった。
まず、無くさない。スマートフォンを無くす頻度は、suicaを無くす頻度より有意に低い。したがって、端数だけ入金されたsuicaが複数枚、という状況は生じ得ず、経済的。
それから、クレカからチャージできる。これも素晴らしい。貧乏人はしばしばクレカで生活費を賄っているので、非常に嬉しい。
そして、これが表題のやつだが、現金からでもチャージ機でチャージができる。クレカの限度額に到達したけど現金はちょっとだけある…みたいな時に有効。完全にモバイルsuicaの上位互換じゃん(なお、モバイルsuicaへの現金でのチャージはお札でしかできないものと思っていたけれど、上の増田によると窓口でなら小銭チャージが可能らしい。これで「小銭しかないし切符買うか〜…」という状況からもおさらばというわけ。増田ありがとう!!)

そんなこんなで、私は当分モバイルsuicaを使い続けると思うし、懐に余裕ができない限り、自分でもダセェな…と思いつつも現金チャージをすると思う。何卒お目溢しを。

1975年のやりがい搾取批判:児玉幸多, 林英夫編『市町村史等刊行の実務』

児玉幸多, 林英夫編『市町村史等刊行の実務』柏書房、1975年。

 

最近地方史まわりの本をちまちま読んでいて、その過程でこの本に遭遇した。

いわゆる「実務本」は、積極的に読むわけではないけれど、たまに読むことがあって、独特の面白さを感じる。その面白さは、大きく三つに分けられるように思う。

一つは、自分野のものであればすぐさま役に立つし、分野が違っても考え方を応用すれば後の仕事にも生かせそうなポイントがある、という面白さ。

第二に、他分野(あるいは大昔の自分野)の実務書を読むことで、概説書では知ることのできないような風景や実情を見ることができる、という面白さ。

そして、それに加えて、実務書は、実務経験者が執筆する関係で、実務で経験した恨みつらみが透けて見えることも多く、そこも結構実務書を楽しく読めるポイントだと思っている。人間の愚痴は結構面白い。

三つ目のポイントに関しては、体感では、昔に出版された本や、クローズドな読者層を想定した本の方が、どことなく「抜けて」いる感じがあって、「狙い目」な感じはある。

本稿で主題とする『市町村史等刊行の実務』は、業務で郷土史を作成しようとする自治体職員向けに書かれた書籍。当時、自治体史の編纂が一大ブームになっていたようで、そうしたブームに翻弄される自治体職員が本書の主たるターゲットである。本書には、先述の三つの面白さが全て詰まっている。

ただし、「面白い」と言っても、流石に立花書房から出ている職質マニュアル*1みたいな凄まじいものを想定すると肩透かしを喰らう。本書は全体的に非常に常識的かつ良心的な本だ。とはいえ、ところどころで実務家の苦労が滲み出た記述があり、特に人の金がらみの愚痴が読めるので、それだけでそこそこ面白い。あまり褒められた読み方ではないんだけど。

本書は4部構成になっている。

Ⅰ「刊行の視座と事例」では、地方史の専門家による討議が掲載されていて、当時の地方史をめぐる言説状況を伺うことができる。とはいえ、ここはやや退屈。後年に出た『岩波講座 日本通史〈別巻2〉地域史研究の現状と課題』の方が内容も充実していて面白い。

Ⅱ「刊行計画の立案と手続き」では、予算の組み方や報酬の算出方法、具体的な手続き、よくあるトラブルなど、実務に必要な様々な情報が記載されている。自治体職員が一番読みたいのはここだろう。

Ⅲ「史料調査の方法」は、石碑の読み方など、実際に調査をする際に役立つマニュアルになっている。

Ⅳ「編纂の実際」は実例集。自治体史編纂がどのように進んでいくのかを、実際の事例を元に解説する。IIとⅣを読めば、自治体史製作費の相場が何となく見えてきて、「ああ、この町史はこれくらいの予算で作ったんだな…」ということを察することが多少できるようになる。

その中でも、読み物として面白いのが、藤本篤による「1.編纂費の構成」(Ⅱ「刊行計画の立案と手続き」に収録)。この章は、何せ金の話なので、それだけでだいぶ興味を引かれる(実際、予算や報酬の組み方について詳述している箇所は興味深い)わけだが、それに加えて、たまに毒気のあることを書いているのも面白い。

 

たとえばこんな話が載っている。

郷土史の編纂にあたっては、編集委員に対し、執筆を中心に様々な仕事を依頼するわけだが、その際、編集委員にどれくらいの報酬を渡すか、という問題が出てくる。自治体の中には「本職があるんだから名義料ぐらいでいいだろ」としてわずかな手当しか渡さないところがあったり、「財政担当者が『委員の報酬高すぎ』と主張して予算の折り合いがつかない」ということもある。そして、Twitterで大人気の「仕事には対価をきっちり払え」という論が、ここで登場する。ちょっと引用しよう。

「委員は自分の専門とするところを執筆し、編纂するのだから、費用がそれほどかかるとは思われない」ということをよく聞く。しかし、これは全く委員の立場を無視したもので、ほとんどの委員は、市町村史の執筆・編纂について、自分の編著書や論文を作成するとき以上の時間をかけ、細心の注意を払っていることを知らないためである。すなわち、個人の編著書や論文は、その編著者や執筆者に責任があるが、府県史や市町村史の場合、編纂者や執筆者だけでなく、刊行主体者にも責任の一端があるとされ、そのため委員はこうしたものについては、必要以上に緊張した執筆・編纂態度をとっているものである。そしてそれは、委員が学問的良心を強くすればするほど、史料調査・収集整理などの基礎作業に要する経費だけに限ってみても、ますます増加するばかりであることは、少しでも市町村史編纂経験のある人なら、だれでも知っているはずである。*2

正論。しかも普遍性がある。ちょっと固有名詞を入れ替えると色々な事案に適用できそう。

報酬をめぐる話はもう少し続く。そして、「やりがい搾取」に似た議論も登場する。再び引用。

市町村史は、公共のためという目的を持つものであり、また郷土のためと考えることが多い。しかし、いかに「公共のため」であり「郷土のため」であっても、刊行主体者が委員の好意だけにすがり、交通費にも足りないような報酬や原稿料を出したり、金一封と感謝状だけで済ませようとしたりすることは、時代錯誤のそしりを受けてもしかたあるまい。正当な対価は支出するべきであろう。*3

これ、1975年の本です。それから50年近く経った今になっても、「やりがい搾取」が未だ地上から根絶されていないことには、なかなか物悲しさを感じさせるものがある。*4

でまあ、ここで終わっておくこともできるのだが、直後に藤本先生はこういう文章を続ける。

もっとも、数ある市町村史編纂の例をみると、委員が「編纂者として名前を記されることは名誉」であると考えたり、「公共のための犠牲的精神で」という例もある。しかし、極端な言い方かもしれないが、名前を記されることを名誉と考えるほど自己顕示欲の強い人であれば、背文字としては名前ののらない市町村史の執筆・編纂に傾ける精力を、背文字に名前の記される自分の編著に注ぐであろう。ただし、主体者側が、著書や編書や論文などの業績もなく、ともかくも書いてしまえば活字になる府県・市町村史を、趣味の物書きとしている程度の人を委員として委嘱するのであれば、話は別である。*5

それはそうかもしれないが、ここまで毒吐く必要あるか?

このほか、ちょっとした愚痴もちょいちょい出てくる。

これは、調査用のカメラを新しく購入した方がいいですよ、という文脈で出てくる一文。

筆者はたまたま財政豊かでない市の市史ばかりに関係してきたためか、編集室の備品としてのカメラを購入してもらえず、一つの市史を完成するたびに私物の35ミリカメラ一眼レフ一台ずつを、やむなくつぶしてきたが、こうしたものは編纂委員の犠牲を頼るようでは困ることである。*6

不憫すぎる。あまりにもかわいそうなのだが、正直なところ、SDキャラが手持ちのカメラが壊れたことをブツクサ言ってる様子を想像してしまい、(萌えキャラか? かわいい…)などと思ってしまった。実際結構な痛手だったとは思う、本当に……

これは結構ひどい事案。

庁用器具のほか、忘れてならないものに図書がある。これまた筆者の思い出すのもいやな経験であるが、ある市の市史編纂部職員(専任嘱託)として赴任したとき、図書費0というのに驚き、早速主管課長に図書費二万円の追加計上を申し入れたところ、「一応財政担当者と相談してみたが、本市があなたに来ていただいたのは、本(市史)を作ってもらうためで、本を買ってもらうためではない。待遇に不満があるのならば、食糧費一〇万円を追加するから、それで勘弁して欲しい」という回答があり、あいた口がふさがらなかった。……一般事務の経験しかない市町村職員の中には、案外こうした考え方を持っている者が多い。*7

予算回りで本当に苦労されたんだなあ、と思わされる。藤本先生の願い通り、各自治体できっちり予算が確保され、自治体史編纂が滞りなく進むといいな、とも思えてくる。なお、藤本先生はのちに大阪市史編纂所の所長も務め、現在でもご存命とのこと。長生きして欲しい。

ja.wikipedia.org

……ここまで書いたところで、少し嫌な予感がしたので、大阪市のホームページを確認した。大阪市史編纂は市教育委員会の所管のようだ。大阪市の決算情報のページから、年度別の市史編纂に関わる委託料を確認し、グラフにしたものが以下。

 

2004年度から2020年度にかけての大阪市市編纂に関わる委託料の変動を示したグラフ。減少傾向にあることがわかる。

2004年度から2020年度にかけての、大阪市史編纂にかかわる委託料の変動を示したグラフ。大阪市のホームページに掲載されている、年度別の教育委員会事務局委託料支出一覧をもとに作成。単位は円。

見て分かる通り、2004年度からの16年間で、おおよそ5分の2にまで減少している。うーん……。*8

 

本書は、単調な部分も多く、全体的に面白いかというと微妙だけれど、見かけたらちょっとページをめくって、気になるところを拾い読みしてみてもいいかもしれない。

最後に、個人的に気に入った一節を引用して終わる。市史の出版業者を選定する際の心がけについて記述した箇所。

不慣れな相手方であっても、誠実な業者であれば、こうした仕事を重ねることによって成長のうえ、地域社会の出版文化の核となることも考えられる。選択上、こうした配慮や寛容性も忘れたくないものである。*9

行政の仕事には、近視眼的なものでなく、地域産業や地域文化を育成するという長期的な視点も必要で、必ずしも民間企業のような「合理的」な判断でやっていくと、結果的に、生まれ出たはずの様々な豊かさを損なってしまうことになる。市史編纂は、地域共同体を文字通り編み直す作業でもあるのだ。だからと言って無尽蔵に金を注ぎ込むわけにもいかないのだが。

 

 

 

 

 

 

*1:立花書房は警察官向けの書籍を多数出している出版社で、職質本も複数出している。そして、複数の職質本で問題のある記述がなされていることが知られている。これとか、

nlab.itmedia.co.jp

これとか。

ronnor.hatenablog.com

*2:p.80

*3:pp.80-81

*4:とはいえ、「やりがい搾取」は「働くことを通じて自己実現がなされているかのように見えることを利用して搾取されること」を巡る話なので、公共のため云々は違う話なのだが、しかし「公共への奉仕者たる自分」の実現、というニュアンスを読み取るならば、これは完全にやりがい搾取の文脈で理解できる。

*5:p.81

*6:p.87

*7:pp.87-88

*8:なお、このように委託料が大幅に減少している理由は不明。市議会の議事録も検索したが、市史編纂の予算関連の発言は(確認できた範囲では)存在しなかった。

*9:p.112

メモ:女工の管理と同性愛の防止(何のために?):石上欽二「女工の躾け方と教育」

良妻賢母論関連文献を探している過程で石上欽二「女工の躾け方と教育」を発見した。先日読んだ論文*1の関係で女性同性愛関連の記述がないか確認したところ、ボカされてはいたがごくわずかに記述があったのでメモする。その前に本書の概要から。

本書は大正10年に大阪で発行され、著者も大阪の西成・粉濱村に居住している(奥付より)。本書は、近代日本女子教育文献集の一部として1984年に日本図書センターから復刊された。今回参照しているのもそのヴァージョンである。

ネットで検索したら国立国会図書館デジタルコレクションに収録されていた。

dl.ndl.go.jp

本書の性格がわかる記述を冒頭部から引く:

心から愉快に働いて居る女工はおそらく半数もありますまい。猶ほ又、彼等女工は概ね下級の家庭に育った者でありまして、自然其性質も純良なもの而巳ではありません。生活の貧しい爲めに萠した盗み心や、無教育な親に育てられた怠まけ根性や、私生兒継兒の僻み根性や、周圍の境遇に培はれ來た強情性や、その他有らゆる性情の持主が寄合つて居ります。その上にまた良くない家庭が蔭から糸を引いて彼等を操つて居る事もあり、女工は孰れも思春期もしくは青春期の者でありますから、自から性慾上の危機に坐して居る計りでなく、既に破淪に陥って居る者もあります。その他數え挙ぐれば數限りもありません。斯う云ふ危険性を帯びた連中と然うして其朱に交われば赤くなる純白の青少女との集團が即ち女工の群れでありまして、然かも其周邊には多くの魔の手と然うして萬ある機會とが誘惑の網を張つているのであります。この間に處して彼等女工の品性を陶冶し知能を啓發して、倦ましめず苦しましめず、徐々に能働=心から進んで働く=に導くことは、啻に工場管理上からの必要のみでなく國家社會の政策上から見ても極めて肝要な事柄なのであります。*2

.

私は前項に於て女工の躾や教育は宜しく其各自が、

「心から樂しんで働く」

やうに仕向けねばならぬと云ふ意味のことを申しました。*3

同性愛関連の記述は『四、女工の心を解剖すれば』の一節「期節と心身異常」のさらに一項目「ハ、性慾の異常」にある。

まず「期節と心身異常」の冒頭部から引く。

私共の精神や身體はまた、寒暖の期節に依つて、種々に異常を生ずるものでありまして、殊に氣候の暖かい春から、暑い夏の期節にかけて、歳若い女工達は、一人其異常の甚しきを見るのであります。*4

その異常の一つが「性欲異常」であり、その中に同性愛が含まれる。

「ハ、性慾の異常」の冒頭から時代背景を察することができる。

先年前大阪付近に突如として

女學生惨殺事件

起り、少なからず全国を驚異せしめた…

工場當事者諸氏は此女學生殺害事件を決して餘所事とする事は出来ません。…

職工の中には隨分不良少年も居れば色情狂も澤山居ます。…女工の多數は妙齡の未婚者であり、而してその相接近するの機會は甚だ多いのであります。*5

当時、女学生とそのセクシュアリティは社会において大きな関心事となっていた。それと関連づけて石上は女工を論じる。

そして、再び女工の資質に関する論:

職工階級の如き比較的教育程度淺く、且つ社會的地位の低いものは自省の力が乏しく、然も其の感情性慾の異常的発動は粗野であり、露骨であるから、ソコに種々の問題を惹起するのであります。*6

その結果何が起こるとしているか:

イ、淫蕩情事に耽けること

ロ、精力を消耗すること

ハ、勞働を倦怠すること

ニ、華美な服装をなし金錢を浪費すること

ホ、惡疾に感染すること

ヘ、嫉妬沙汰多きこと

ト、家庭の不和を生ずること

チ、缺勤、遅刻、早引、退社等の事故を生ずること

リ、工場の風紀を紊亂すること

等の諸弊害を起して、著しく能率減殺の基を作るものであります。*7

では、どうすれば良いか:

A、稗史小説類を耽讀せしめぬこと

B、華麗淫靡な風装を戒しむること

C、女工同士の同衾を禁ずること

F、濫りに男女工を接近せしめぬこと

G、淫奔多情者を警戒すること*8

石上は明確な形では記していないが、この「C、女工同士の同衾を禁ずること」は女性同性愛への警戒から付された項であろう。とはいえ、本節のメインとなっているのはあくまで男性への警戒であり、女性同性愛の文字は登場しない。これをどのように理解するかは解釈の余地のあることだが、一つ考えられるのは、「女性同士の同衾」つまり女性同士の性行為が、男性との性行為につながるものとして理解されていた、という可能性である。 鄒(2018)は、女学生同士の愛を擁護する方便の一つとして「いずれ来るべき男女恋愛」への準備として女学生同士の恋愛を語る向きがあったことを述べている。このほか、同性愛を異性愛の代替物として理解する見解は広く見られる。石上の理解もその上にあるものだろう。

以下雑感。本書の全体には、階級差別を含む女性への蔑視の空気が漂っている。本書をざっと読む感じ、石上は女工のライフプランに思いを馳せたりはしないようだ。本書に女性の人格への尊重はなく、ただ「能率減殺」を引き起こさないための術が記されている。そして、そのことは漠然と「彼女らにとっても良い」ことであるかのように理解されている。それがどのように良いのか、という具体像は全く見えないのだが。

*1:これ。

ci.nii.ac.jp

なお、近代日本における女性同性愛に関しては、この本が評判がいい。

www.amazon.co.jp

*2:pp.4-5

*3:p.6

*4:pp.98-99

*5:pp.111-112

*6:pp.114-115

*7:pp.115-116

*8:p.116