荒れ果てた大地

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1975年のやりがい搾取批判:児玉幸多, 林英夫編『市町村史等刊行の実務』

児玉幸多, 林英夫編『市町村史等刊行の実務』柏書房、1975年。

 

最近地方史まわりの本をちまちま読んでいて、その過程でこの本に遭遇した。

いわゆる「実務本」は、積極的に読むわけではないけれど、たまに読むことがあって、独特の面白さを感じる。その面白さは、大きく三つに分けられるように思う。

一つは、自分野のものであればすぐさま役に立つし、分野が違っても考え方を応用すれば後の仕事にも生かせそうなポイントがある、という面白さ。

第二に、他分野(あるいは大昔の自分野)の実務書を読むことで、概説書では知ることのできないような風景や実情を見ることができる、という面白さ。

そして、それに加えて、実務書は、実務経験者が執筆する関係で、実務で経験した恨みつらみが透けて見えることも多く、そこも結構実務書を楽しく読めるポイントだと思っている。人間の愚痴は結構面白い。

三つ目のポイントに関しては、体感では、昔に出版された本や、クローズドな読者層を想定した本の方が、どことなく「抜けて」いる感じがあって、「狙い目」な感じはある。

本稿で主題とする『市町村史等刊行の実務』は、業務で郷土史を作成しようとする自治体職員向けに書かれた書籍。当時、自治体史の編纂が一大ブームになっていたようで、そうしたブームに翻弄される自治体職員が本書の主たるターゲットである。本書には、先述の三つの面白さが全て詰まっている。

ただし、「面白い」と言っても、流石に立花書房から出ている職質マニュアル*1みたいな凄まじいものを想定すると肩透かしを喰らう。本書は全体的に非常に常識的かつ良心的な本だ。とはいえ、ところどころで実務家の苦労が滲み出た記述があり、特に人の金がらみの愚痴が読めるので、それだけでそこそこ面白い。あまり褒められた読み方ではないんだけど。

本書は4部構成になっている。

Ⅰ「刊行の視座と事例」では、地方史の専門家による討議が掲載されていて、当時の地方史をめぐる言説状況を伺うことができる。とはいえ、ここはやや退屈。後年に出た『岩波講座 日本通史〈別巻2〉地域史研究の現状と課題』の方が内容も充実していて面白い。

Ⅱ「刊行計画の立案と手続き」では、予算の組み方や報酬の算出方法、具体的な手続き、よくあるトラブルなど、実務に必要な様々な情報が記載されている。自治体職員が一番読みたいのはここだろう。

Ⅲ「史料調査の方法」は、石碑の読み方など、実際に調査をする際に役立つマニュアルになっている。

Ⅳ「編纂の実際」は実例集。自治体史編纂がどのように進んでいくのかを、実際の事例を元に解説する。IIとⅣを読めば、自治体史製作費の相場が何となく見えてきて、「ああ、この町史はこれくらいの予算で作ったんだな…」ということを察することが多少できるようになる。

その中でも、読み物として面白いのが、藤本篤による「1.編纂費の構成」(Ⅱ「刊行計画の立案と手続き」に収録)。この章は、何せ金の話なので、それだけでだいぶ興味を引かれる(実際、予算や報酬の組み方について詳述している箇所は興味深い)わけだが、それに加えて、たまに毒気のあることを書いているのも面白い。

 

たとえばこんな話が載っている。

郷土史の編纂にあたっては、編集委員に対し、執筆を中心に様々な仕事を依頼するわけだが、その際、編集委員にどれくらいの報酬を渡すか、という問題が出てくる。自治体の中には「本職があるんだから名義料ぐらいでいいだろ」としてわずかな手当しか渡さないところがあったり、「財政担当者が『委員の報酬高すぎ』と主張して予算の折り合いがつかない」ということもある。そして、Twitterで大人気の「仕事には対価をきっちり払え」という論が、ここで登場する。ちょっと引用しよう。

「委員は自分の専門とするところを執筆し、編纂するのだから、費用がそれほどかかるとは思われない」ということをよく聞く。しかし、これは全く委員の立場を無視したもので、ほとんどの委員は、市町村史の執筆・編纂について、自分の編著書や論文を作成するとき以上の時間をかけ、細心の注意を払っていることを知らないためである。すなわち、個人の編著書や論文は、その編著者や執筆者に責任があるが、府県史や市町村史の場合、編纂者や執筆者だけでなく、刊行主体者にも責任の一端があるとされ、そのため委員はこうしたものについては、必要以上に緊張した執筆・編纂態度をとっているものである。そしてそれは、委員が学問的良心を強くすればするほど、史料調査・収集整理などの基礎作業に要する経費だけに限ってみても、ますます増加するばかりであることは、少しでも市町村史編纂経験のある人なら、だれでも知っているはずである。*2

正論。しかも普遍性がある。ちょっと固有名詞を入れ替えると色々な事案に適用できそう。

報酬をめぐる話はもう少し続く。そして、「やりがい搾取」に似た議論も登場する。再び引用。

市町村史は、公共のためという目的を持つものであり、また郷土のためと考えることが多い。しかし、いかに「公共のため」であり「郷土のため」であっても、刊行主体者が委員の好意だけにすがり、交通費にも足りないような報酬や原稿料を出したり、金一封と感謝状だけで済ませようとしたりすることは、時代錯誤のそしりを受けてもしかたあるまい。正当な対価は支出するべきであろう。*3

これ、1975年の本です。それから50年近く経った今になっても、「やりがい搾取」が未だ地上から根絶されていないことには、なかなか物悲しさを感じさせるものがある。*4

でまあ、ここで終わっておくこともできるのだが、直後に藤本先生はこういう文章を続ける。

もっとも、数ある市町村史編纂の例をみると、委員が「編纂者として名前を記されることは名誉」であると考えたり、「公共のための犠牲的精神で」という例もある。しかし、極端な言い方かもしれないが、名前を記されることを名誉と考えるほど自己顕示欲の強い人であれば、背文字としては名前ののらない市町村史の執筆・編纂に傾ける精力を、背文字に名前の記される自分の編著に注ぐであろう。ただし、主体者側が、著書や編書や論文などの業績もなく、ともかくも書いてしまえば活字になる府県・市町村史を、趣味の物書きとしている程度の人を委員として委嘱するのであれば、話は別である。*5

それはそうかもしれないが、ここまで毒吐く必要あるか?

このほか、ちょっとした愚痴もちょいちょい出てくる。

これは、調査用のカメラを新しく購入した方がいいですよ、という文脈で出てくる一文。

筆者はたまたま財政豊かでない市の市史ばかりに関係してきたためか、編集室の備品としてのカメラを購入してもらえず、一つの市史を完成するたびに私物の35ミリカメラ一眼レフ一台ずつを、やむなくつぶしてきたが、こうしたものは編纂委員の犠牲を頼るようでは困ることである。*6

不憫すぎる。あまりにもかわいそうなのだが、正直なところ、SDキャラが手持ちのカメラが壊れたことをブツクサ言ってる様子を想像してしまい、(萌えキャラか? かわいい…)などと思ってしまった。実際結構な痛手だったとは思う、本当に……

これは結構ひどい事案。

庁用器具のほか、忘れてならないものに図書がある。これまた筆者の思い出すのもいやな経験であるが、ある市の市史編纂部職員(専任嘱託)として赴任したとき、図書費0というのに驚き、早速主管課長に図書費二万円の追加計上を申し入れたところ、「一応財政担当者と相談してみたが、本市があなたに来ていただいたのは、本(市史)を作ってもらうためで、本を買ってもらうためではない。待遇に不満があるのならば、食糧費一〇万円を追加するから、それで勘弁して欲しい」という回答があり、あいた口がふさがらなかった。……一般事務の経験しかない市町村職員の中には、案外こうした考え方を持っている者が多い。*7

予算回りで本当に苦労されたんだなあ、と思わされる。藤本先生の願い通り、各自治体できっちり予算が確保され、自治体史編纂が滞りなく進むといいな、とも思えてくる。なお、藤本先生はのちに大阪市史編纂所の所長も務め、現在でもご存命とのこと。長生きして欲しい。

ja.wikipedia.org

……ここまで書いたところで、少し嫌な予感がしたので、大阪市のホームページを確認した。大阪市史編纂は市教育委員会の所管のようだ。大阪市の決算情報のページから、年度別の市史編纂に関わる委託料を確認し、グラフにしたものが以下。

 

2004年度から2020年度にかけての大阪市市編纂に関わる委託料の変動を示したグラフ。減少傾向にあることがわかる。

2004年度から2020年度にかけての、大阪市史編纂にかかわる委託料の変動を示したグラフ。大阪市のホームページに掲載されている、年度別の教育委員会事務局委託料支出一覧をもとに作成。単位は円。

見て分かる通り、2004年度からの16年間で、おおよそ5分の2にまで減少している。うーん……。*8

 

本書は、単調な部分も多く、全体的に面白いかというと微妙だけれど、見かけたらちょっとページをめくって、気になるところを拾い読みしてみてもいいかもしれない。

最後に、個人的に気に入った一節を引用して終わる。市史の出版業者を選定する際の心がけについて記述した箇所。

不慣れな相手方であっても、誠実な業者であれば、こうした仕事を重ねることによって成長のうえ、地域社会の出版文化の核となることも考えられる。選択上、こうした配慮や寛容性も忘れたくないものである。*9

行政の仕事には、近視眼的なものでなく、地域産業や地域文化を育成するという長期的な視点も必要で、必ずしも民間企業のような「合理的」な判断でやっていくと、結果的に、生まれ出たはずの様々な豊かさを損なってしまうことになる。市史編纂は、地域共同体を文字通り編み直す作業でもあるのだ。だからと言って無尽蔵に金を注ぎ込むわけにもいかないのだが。

 

 

 

 

 

 

*1:立花書房は警察官向けの書籍を多数出している出版社で、職質本も複数出している。そして、複数の職質本で問題のある記述がなされていることが知られている。これとか、

nlab.itmedia.co.jp

これとか。

ronnor.hatenablog.com

*2:p.80

*3:pp.80-81

*4:とはいえ、「やりがい搾取」は「働くことを通じて自己実現がなされているかのように見えることを利用して搾取されること」を巡る話なので、公共のため云々は違う話なのだが、しかし「公共への奉仕者たる自分」の実現、というニュアンスを読み取るならば、これは完全にやりがい搾取の文脈で理解できる。

*5:p.81

*6:p.87

*7:pp.87-88

*8:なお、このように委託料が大幅に減少している理由は不明。市議会の議事録も検索したが、市史編纂の予算関連の発言は(確認できた範囲では)存在しなかった。

*9:p.112